「国造り」に思う

今週、久しぶりにパネルディスカッションのファシリテーターを務めた。
パネルのタイトルは、「政治のガバナンス強化に必要なこと~なぜ整合性のある政策が実行できないのか?~」。
なんだか非常に議論が混迷しそうなテーマだ。
パネラーは、参議院議員で、自民党・幹事長代理の世耕弘成氏、明治大学・専門職大学院の青井倫一教授、さらにグローバルタスクフォース代表取締役の山中英嗣氏。そして、衆議院議員で、自民党・中央政治大学院・学院長の古屋圭司氏も加わった。
そもそも政策の整合性といっても、個別政策同士の整合性なのか、政治家の目指すべきものと民間、つまり、個人や企業の考えるものとの整合性なのか、はたまた、党の掲げる大きなビジョンと個別政策との整合性なのか、、、。
しかも、いずれも、整合性を図る事は、そう簡単にはいかなそうだ。
だからこそ、そこに、政治の力が必要だ。
今回のパネルは、民間の方も含まれていた事や、世耕氏自身も民間での勤務経験を有しているという事もあり、企業や組織の例を活かした解決提案も出て、大変興味深かった。
国民が何を求めているのか吸い上げて、ポピュリズムではなく、きちんとしたマーケティングに基づいての政策立案が必要という一国民としては大変心強い意見もあった。
しかし、そもそも国民全体や個々人の意識自体が矛盾を孕んでいるものであるし、諸利害が多様化し、混沌としている中で、一つの、とは言わないが、ある一貫性を持った政策を作り、実行していく事は大変困難に思える。
そのためにも、やはりリーダーシップが必要であるという。
リーダーだけの能力ではない。もっと政治家の中に出来る人材を育てていかなければならない、という意見も聞かれた(パネルの中では「マネジメントの出来る人間を増やす」という言葉が使われていた)。
確かにそうだろう。しかし、恐らく政治家になったような方達は、既にリーダーシップという能力を持ち合わせた人間だと思う。
それなのに、何故、「リーダーシップがない」という声が、首相が変わる度に出てくるのか。
国のトップとしてのリーダーシップとは、通常言われる「リーダーシップ」と、種類も、求められる能力も違うのかもしれない。
それでも、やはり国を引っ張っていける強いリーダーシップが必要な事は疑いない。
ただ、そんな人間が出てくるまで、我々国民は待たなければいけないのか。
そういう能力のある人間が育つまで、国民は我慢を強いられるのか。
原発の問題もそうだが、国としての存在感の低下、競争力の失墜といった危機は待ったなしである。
ユカログでも、つぶやかせて頂いたが、リーダーシップなしで機能するような仕組みづくりは出来ないものか。
そう、例えば、今もそうであるが、日本企業のように、一人一人の個人の能力の高さと、世界でも類稀なる集団力の強さ。そういった国をつくる一つ一つの要素を強化させるような事によって、国の方向性を決めて行く、“かつての日本”に戻れないだろうか。
そのためには、いずれにしろ少なくとも、どういう国にこれからしていきたいのか、という「国家目標」が必要になってくる。
しかし、それを政治家もそうだが、国民ともどもに議論することも行われていないように見える。
そして、その国家目標というものも厄介だ。
首相が変わる度に、ビジョンも変わるようではいけない。
ひと頃のように、ただ豊かさだけを求めていた時代とは違う。
国民の総意や、わかりやすい目指すべき方向性がなくなった今、何か明確なものによりかかって国造りを手伝うという政治の役割は機能しにくい。
ただ、その時々で、部分最適にしろ、全体最適にしろ、政策を打ち出し、方向性を模索しながら、ベクトルとしては日本が元気で活気ある魅力的な国にしていく指針を示す努力を政治には求めたい。